「変換」のエネルギーロス

日本語の文字体系は、文字を持つ言語の中でも少し珍しい性質を持っている。

「ひらがな」「カタカナ」「漢字」といった複数の文字体系があることだ。

このことについて、少し思ったことがある。

 

キーボードで日本語の文章を打つ時、必ず「変換」という作業が入ってくる。

「平仮名(あるいは片仮名)が画面に表示されている状態でスペースキー(変換キー)を押し、表示された候補の中から文脈上適切なものを選ぶ」という行為だ。

私はたまに、この作業が煩わしく感じることがある。

「適切な変換候補を探す」「誤変換をしてしまった時に修正する」といった作業に費やされるエネルギーが、なかなか馬鹿にできない気がするのだ。

 

英語をはじめとする大多数の言語は表音文字しか持たないから、文章の大部分はキーボード上の文字だけで表現できる。特殊記号が必要になる時もあるだろうけど、日本語の「変換」という行為の頻度に比べたら、ずっと低いはずだ。複数種類の文字(ex. 大文字と小文字)を使い分ける言語もあるけど、大半の言語でそういう打ち分けはShiftキーを使うだけで実現できる。これまた、「キーを押して候補を探し出す」という行為とは消費エネルギーの量が違う。

 

私が考えているのは、「そういう言語と比べて、日本語は同じ時間にタイピングで表現できる情報量が少ないのではないか?」ということだ。その理由は、上に述べたように「変換」という作業に余分な時間を必要とするからだ。少ない回数なら大した時間にはならないが、ずっと文章を書いていれば、その量はだんだんと積み重なっていく。もし日本語が「変換」を全く必要としない言語だったら(= ひとつの文字体系だけで全てを表現できるとしたら)、今よりも早いスピードで思考のアウトプットができたのかもしれないな、と思う。

 

まだ思いつきの段階なので、もしかしたら考慮できていない事実などがあるかもしれない。でも、全くの見当外れではないような気がする。同じことを感じている人はいないだろうか?

日記 2017年11月30日(木)

・いかにもな「日記」はもともと手帳につけていたが、ちょっと試しにこっちの方にも書いてみようと思う(しばらく更新できていなかったので、久しぶりに書き出すきっかけにもなればと思っている)。書くことが多い日は手帳のスペースがなくなってしまってちょっと困ることもあるが、ブログならその心配がないので良い。

・だいたいこんな感じで、中点だけで段落というかテーマを区切って書く。細かい言葉選びは文章を書きながらちょこちょこ修正するが、文章の大きな構成にはほとんど手を加えていない。基本的にアタマから出てきたままの流れで書いている。ここに書いたものがもっとちゃんとした形にまとまれば、1つのテーマとして独立した記事に昇華させたい。

・今月は割と仕事が忙しく、あまり帰宅後の時間が無かった。帰りは遅くなるが、いかんせん実家暮らしなもので、帰宅してすぐに食事にありつくことができる。ありがたいことなのだけれど、ごはんを食べると、その後に腰を据えて何かを勉強するのがちょっとだけ難しい。スマホとかゲームとか漫画とか、脳みそのリソースを使わないような行動しかできなくなってしまう。遅くなったら晩ご飯を抜くとか、帰宅前にちょっとだけカフェに寄って勉強する、みたいな工夫が必要かも。まあ仕事が早く終わるようにできるのが一番だが。

・昨日Amazonから届いたSplatune2(Splatoon2のサントラ)を、通勤電車の中でずっと聞いていた。割と昔から、曲でゲームを好きになるということが多い気がする。Splatoonもそんなゲームの1つだ。曲を聴いているだけで、プレイしている気分になってしまう。曲だけを取り出しても、全然飽きずに聴き続けられる。この話で思い出したのだが、最近よく考えるのは、ゲームってハイレベルな総合芸術だよな、ということ。一流の作曲家・演奏家・絵描き・技術者といった人たちが集結してものを作り、しかもそれを1つの完成された「遊び」にしてしまうのだ。どんな才能があったら、そんなものを作り上げることができるんだろうか。これほどのものが数千円で自分の手元に届くなんて、いい時代だなあと思う。私はあまりモノづくりが得意ではないので、他人の作ったゲームを消費してばかりいることに対して罪悪感を覚えることもある。しかしそれはそれとして、良いゲームはやはり最高に楽しい。

・今月はあまり走れなかった。平日の帰宅がやや遅めだったのと、中旬から下旬にかけてずっと風邪ぎみだったのが災いした。昨日久しぶりに走ってみたら7kmいけたので、あまり体力は落ちていなさそうだが。

・ざっと書くとこんな感じになるということが判明した。あまりアタマを使わずに書くと、分量だけなら短時間で結構書けてしまうものだな。

反論したり疑問をぶつけるのは、納得したいから

これはどちらかというと、自戒として書いている。

何かを人に提案した時などに、
「それなら〇〇する方がいいんじゃない?」
「じゃあ✕✕みたいな場合はどうするの?」
「ここを△△にしたのはどうして?」 のような反応をされることはままある。

私の場合だと、仕事で上司に「こうしようと思うんですけどどうでしょうか」という提案をした際に、↑のように言われることが多い(未熟者なので)。
そういった時、私はつい反射的に「あ、自分の考えが全面否定されちゃってる」と考えてしまい、次の言葉が止まりがちだ(未熟者なので)。
しかし最近、どうも自分の認識はちょっと違うのかもな、と思ったので、忘れないうちにここに書いておこうと思う(未熟者なので)。

何が言いたいかというと、「反論や疑問を相手に投げかけるのは、相手の考えを否定して自分の考えを押し付けたいからではなく、相手の考えにちゃんと納得したいからなのでは?」ということだ。

相手から反論や疑問が出てくるのは、こちらの用意した説得材料に何か不足があったということだ。
反論や疑問を出すことによって、その人は説得材料を引き出そうとしてくれている。別の言い方をすれば、こちらに歩み寄ってくれている、と言える。
もしそこできちんと筋の通った答えを返すことができれば、多くの場合、相手は納得してくれる。「ああ、そういうことなら大丈夫だね」といった具合に。
あるいは、「それだったらこうした方がこういう点でメリット多いよ」という有益なアドバイスをもらえるかもしれない。

つい最近、人数のかなり少ない部署に異動になった関係で、以前よりもキビキビと仕事をすることが求められるようになった。反論や疑問を受けるたびに頭を真っ白にする、なんて悠長な真似はできない。
そういった環境に置かれてようやく、「反論や疑問にきちんと応えることで、もっと深い対話ができるようになる」ということを学んだ。
反論や疑問は、否定ではなく、歩み寄りのサインなのだ。

行動を習慣化させる3つのコツ

ランニングから学んだ、継続のコツ

2ヶ月ほど前に、ランニングを始めた。週に3回走っていて、距離は1回あたり5kmほどである。
あまり運動はしない方だったが、不思議と続けられている。

なぜ三日坊主で終わらなかったのか、理由を考えてみた。
どうやら、物事を継続させる「コツ」のようなものを、無意識のうちに実践していたようである。
そのコツは3つほどある。他の事をやる時にも応用できそうだと思ったので、ここに書き記しておこうと思う。

1. 余計な負荷や苦労を減らす

私はなんでも、形から入る習性がある。ランニングを始める時も、2つのモノを用意した。
ひとつは、走り方についての本。もうひとつは、ちゃんとしたランニングシューズだ。
これらが何の役に立ってくれたか?
ひとことで言うと、これらのおかげでとても「楽に」走れている。

シューズや本を買う前、大学の先輩に誘われて皇居ランをしたことがある。大学を出て間もない頃の話だ。
長距離を走ったのは、高校の時以来。走り方もロクに知らなかったし、靴は中学生の頃に買ったボロの運動靴。
その結果、完走するまで何度も何度も歩いたし、完走後も足の痛みが1週間以上続いた。

しかし、ランニング用のシューズを買って、正しい走り方で走るようにしてから、足の痛みは全く無い。おかげで、走ることにしっかりと集中できている。

2. 成長が認識できるようにする

いつも、Runkeeperというアプリを使って走っている。

とても便利な代物で、走行距離、所要時間、走ったコースといったデータを自動で記録してくれる。
このアプリのおかげで、「前より長い距離を走れた」「距離は同じだけど、タイムが縮まった」ということが把握でき、モチベーションに繋がっている。
ただ走るだけでも爽快感は得られるかもしれないが、こういったデータをパッと見て自分の成長を実感できると、さらに面白い。

3. 自分で決めたルールに従う

私は、走る曜日を決めている。これの効果は結構大きい。
「今日は走ろうかな~どうしようかな~」と悩んでいると、時間も無駄だし、決断に使うアタマのリソースも無駄になる。
あらかじめ決めてしまえば、走る日はさっさと走りに行けるし、休む日はさっさと他のことができる。
平日は仕事を終えてから走るので、迷っている余裕はないのだ。

おわりに

最初、この記事のタイトルは「努力を継続させる3つのコツ」だった。
しかし、どうも「努力」という単語がしっくりこないので、↑のように変えてみた次第である。

「自分のしていることは『努力』である」という認識を持ってしまうと、その行動を継続するのは困難になってしまうような気がするのだ。
傍から見れば努力しているように見えても、当の本人はそれを何とも思っていない、ということは往々にしてある。私の友人にもそういう人がいたし、私自身もそうだったことがある。

結局のところ、行動を習慣化させる目的は「その習慣化した行動によって何らかの利益を得るため」である。行動そのものは、なるべく楽に行えたほうがいいだろう。

私がランニングを習慣にしているのは、合わないシューズで走って足を痛めたいからではない。
緑豊かな公園へ出かける口実になるから、走る。
体を動かすことで頭も活発に動くから、走る。
「自分は向上心を持って何かに取り組むことができる人間だ」という自信がつくから、走る。

「繰り返し行うことが、われわれの本質である。ゆえに、美徳は行為ではなく、習慣なのである。」というアリストテレスの言葉がある。
つまり、自分が良いと思う行為を習慣にすれば、自分という人間がまたひとつ豊かになる、ということだ。
ランニングを習慣化できた私の感覚からも、それは確かに言える。

機械翻訳が進歩し、普及しても、語学は価値を失わない

翻訳技術の進歩

40言語ものリアルタイム翻訳に対応した、Google製のイヤホンが出るという。

japanese.engadget.com

利用シーンの実演動画もアップロードされている。(1:30~2:30あたり)

youtu.be

これを見る限り、翻訳の精度も速度もかなりのものだ。

ついこの間、文字ベースのGoogle翻訳アプリの方でも「アルゴリズムが改善されて翻訳の質が向上した」とか、「カメラを使ったリアルタイム翻訳が可能になった」という話を聞いたばかりだ。

カメラをかざすだけ!「Google翻訳」のAR翻訳機能が30言語に対応!リアルタイム翻訳が面白すぎる | VR Inside

音声言語の領域でも、翻訳技術は着実に進んでいるようだ。
そのペースの速さには、純粋に驚くばかりである。

語学は必要なくなる?

こういう話を聞くと、私はついつい反応してしまう。というのも、大学で外国語を専攻していた私のような人間が大学卒業後に手にするいちばんの武器は、いわゆる「語学力」であるからだ(もちろん、それだけではないのだが)。

語学力があれば、その言語が話されている土地で不自由なく生活できたり、その言語で発信された情報にアクセスできたり、通訳・翻訳のような特別な仕事がもらえたりする。この恩恵にあずかれるのは、一定以上の時間をかけてその言語を身につけた者に限定される。
したがって、「外国語が話せる」というのは、価値のある特殊技能であると言えよう。だから、~語能力検定のような資格試験があったりするわけだ。

しかし、上に紹介したような翻訳技術がこれから先、どんどん社会に浸透していったら、どうなるだろう?

英語が少しもわからない人でも、
・英語の文化圏でまともな生活ができる
・英語の情報が得られ、正確に理解できる
・英語の通訳、翻訳を人に依頼しなくて済む(= 英語の分かる人は、通訳や翻訳を依頼されなくなる)

こんな時代が、もうすぐ来るのかもしれない。

確かに、ソフトウェアによる翻訳技術がこのまま進歩していったら、「言葉の壁」と言われているものはかなりの程度、取り払われる可能性がある。つまり、自分や相手の母語が何であるかに関係なく、意思疎通ができるようになる、ということだ。
そうなると、わざわざ時間をかけて自分で外国語を勉強するのは、無意味に思えてくる。

果たして本当にそうだろうか?機械翻訳の進歩は、「語学力の価値がゼロになる」ことを意味するだろうか?

「ソーシャルな価値」から「パーソナルな価値」へ

私の考えでは、答えはNOだ。
厳密に言えば、「語学力」という技能は、また別の価値を持つようになってくるだろう。

確かに、翻訳技術の発達によって、語学力が持つ価値の一部はおそらく失われる。
それは「ソーシャルな価値」、つまり社会にとっての価値である。
ざっくり言うと、「誰かが〇〇語の技能を持っていること」を社会は必要としなくなる、ということだ。
ビジネスやアカデミアのような、「情報の中身が伝達できればいい」という世界において、翻訳は余計な作業だ。
ソフトウェアが、そういった事を人間よりも正確に、素早く、低コストでやってくれるとしたら、人間に依頼する理由はあまりなさそうに思える。

しかし、ソーシャルな価値が失われることによって、別の価値が浮かび上がってくる。
それが「パーソナルな価値」、すなわち私たち一人一人にとっての価値である。
たとえ社会の要請がなくとも、個人にとって語学力が価値を持つということは、十分にありえる。

・好きな歌や文学作品を、原語で鑑賞し、理解したい
・友人や恋人の母語で、一緒に会話をしてみたい

そんな時、機械翻訳は解決手段にならない。

言葉の意味は、機械翻訳を使えばたちどころに判明するだろう。しかし、
「目や耳に入ってきたそばから理解できる快感」というものがある。
そのままの声で、気持ちを伝えたい、理解したい時がある。

そのような個人的欲求を満たしてくれる語学力は、たとえ社会の役に立たずとも、その人にとって確かな価値を持つ。

おわりに

念のために書いておくが、私は機械翻訳技術の発達を否定しているわけでは全くない。むしろ歓迎している。
何かを達成するための技術が進歩すると、それ以前のプリミティブな手段には、別の価値が与えられる。
語学の中心的な価値がパーソナルなものへ移行するのは、豊かさの証左とも言えよう。

どこかへ移動するのに、誰もが車や電車や飛行機を使うようになった。
そんな時代になっても、「何となく気持ちがいいから」という、極めて「パーソナルな」理由で、自らウォーキングやランニングに励む人がいる。
同じように、機械翻訳がもっと当たり前のように使われる世の中が来ても、パーソナルな営みとしての語学は価値を持ち続けるだろう。

怒りの行き場

ある日、バスで本を読んでいると、運転手の車内アナウンスでこんな言葉が聞こえてきた。

「お客さーん、他の方の迷惑になりますので、電話はやめてくれませんか」

ふと斜め前を見ると、作業着を着たおじさんが誰かと電話で話している。 しかし、仕事の大事な電話だったのか、おじさんが通話をやめる様子はない。
結局、おじさんが電話をしぶしぶ切るまで、ややうんざりした口調で同じアナウンスが2,3回続いた。

こういった出来事は、想定はできるにしても、出くわす確率で言えばそれほど高くはない。 私も含め、車内の人たちの注意は、否が応でもに電話おじさんへ向けられた。
この一件で私は全く読書に集中できなくなってしまい、非常にモヤモヤした気分のままバスを降りる羽目になった。

バスを降りた後、このモヤモヤをなんとか解消したくて、誰に腹を立てたらいいのか考えてみた。

………

やはり、車内通話をしていたおじさんのせいだろうか。 しかし私は、運転手が車内アナウンスで注意をするまで、おじさんが電話をしていたことに気付かなかったのだ。 おじさんは特別大きな声で話していたわけではない。おじさんの電話が直接の原因ではなさそうだ。

もし運転手のアナウンスがなかったら、恐らくそのまま本を読めていた。ということは、もしかして運転手のせいなのか? 確かに、私の注意が本から逸らされてしまったのは、運転手が注意したタイミングだった。 その意味では、モヤモヤを引き起こした直接の原因は運転手にあるかもしれない。

しかしよく考えると、そもそも運転手がそのような注意をしなければいけなかったのは、おじさんが電話をしていたからだ。 ということは、やっぱりおじさんのせいか!

いやいや待てよ…?おじさんの電話は、チラッと聞こえてきた内容やおじさんの格好から判断するに、おそらく仕事関係だった。 とすると、移動中にも電話をしなければならないほどの過剰な業務を強いている、おじさんの職場に問題があると考えることもできるのではないか。

………

こんなの、ほとんど何のせいにでもできてしまう。正直、全然スッキリしない。
そんな時、ふともう一つの可能性が浮かんできた。

自分自身だ。

私がモヤッとした気持ちになった原因は、読書に集中できなくなってしまったことだった。
「バスで読書に集中できなかったから、気分がモヤッとする」のは、 「バスは本来、読書に集中できる場所である」という期待があったからに他ならない。

この期待に、問題があったのではないか?
初めから、「バスで読書に集中できないのはフツウだ」と思っていたなら、きっと私は何も感じなかっただろう。
そういうことだ。この結論が、結局いちばん腑に落ちた。

怒りの裏には期待がある。
その期待は、果たして正当なものと言えるだろうか?
怒りを露わにする前に、そう自問してみるのもたまにはいいかもしれない。