怒りの行き場

ある日、バスで本を読んでいると、運転手の車内アナウンスでこんな言葉が聞こえてきた。

「お客さーん、他の方の迷惑になりますので、電話はやめてくれませんか」

ふと斜め前を見ると、作業着を着たおじさんが誰かと電話で話している。 しかし、仕事の大事な電話だったのか、おじさんが通話をやめる様子はない。
結局、おじさんが電話をしぶしぶ切るまで、ややうんざりした口調で同じアナウンスが2,3回続いた。

こういった出来事は、想定はできるにしても、出くわす確率で言えばそれほど高くはない。 私も含め、車内の人たちの注意は、否が応でもに電話おじさんへ向けられた。
この一件で私は全く読書に集中できなくなってしまい、非常にモヤモヤした気分のままバスを降りる羽目になった。

バスを降りた後、このモヤモヤをなんとか解消したくて、誰に腹を立てたらいいのか考えてみた。

………

やはり、車内通話をしていたおじさんのせいだろうか。 しかし私は、運転手が車内アナウンスで注意をするまで、おじさんが電話をしていたことに気付かなかったのだ。 おじさんは特別大きな声で話していたわけではない。おじさんの電話が直接の原因ではなさそうだ。

もし運転手のアナウンスがなかったら、恐らくそのまま本を読めていた。ということは、もしかして運転手のせいなのか? 確かに、私の注意が本から逸らされてしまったのは、運転手が注意したタイミングだった。 その意味では、モヤモヤを引き起こした直接の原因は運転手にあるかもしれない。

しかしよく考えると、そもそも運転手がそのような注意をしなければいけなかったのは、おじさんが電話をしていたからだ。 ということは、やっぱりおじさんのせいか!

いやいや待てよ…?おじさんの電話は、チラッと聞こえてきた内容やおじさんの格好から判断するに、おそらく仕事関係だった。 とすると、移動中にも電話をしなければならないほどの過剰な業務を強いている、おじさんの職場に問題があると考えることもできるのではないか。

………

こんなの、ほとんど何のせいにでもできてしまう。正直、全然スッキリしない。
そんな時、ふともう一つの可能性が浮かんできた。

自分自身だ。

私がモヤッとした気持ちになった原因は、読書に集中できなくなってしまったことだった。
「バスで読書に集中できなかったから、気分がモヤッとする」のは、 「バスは本来、読書に集中できる場所である」という期待があったからに他ならない。

この期待に、問題があったのではないか?
初めから、「バスで読書に集中できないのはフツウだ」と思っていたなら、きっと私は何も感じなかっただろう。
そういうことだ。この結論が、結局いちばん腑に落ちた。

怒りの裏には期待がある。
その期待は、果たして正当なものと言えるだろうか?
怒りを露わにする前に、そう自問してみるのもたまにはいいかもしれない。