機械翻訳が進歩し、普及しても、語学は価値を失わない

翻訳技術の進歩

40言語ものリアルタイム翻訳に対応した、Google製のイヤホンが出るという。

japanese.engadget.com

利用シーンの実演動画もアップロードされている。(1:30~2:30あたり)

youtu.be

これを見る限り、翻訳の精度も速度もかなりのものだ。

ついこの間、文字ベースのGoogle翻訳アプリの方でも「アルゴリズムが改善されて翻訳の質が向上した」とか、「カメラを使ったリアルタイム翻訳が可能になった」という話を聞いたばかりだ。

カメラをかざすだけ!「Google翻訳」のAR翻訳機能が30言語に対応!リアルタイム翻訳が面白すぎる | VR Inside

音声言語の領域でも、翻訳技術は着実に進んでいるようだ。
そのペースの速さには、純粋に驚くばかりである。

語学は必要なくなる?

こういう話を聞くと、私はついつい反応してしまう。というのも、大学で外国語を専攻していた私のような人間が大学卒業後に手にするいちばんの武器は、いわゆる「語学力」であるからだ(もちろん、それだけではないのだが)。

語学力があれば、その言語が話されている土地で不自由なく生活できたり、その言語で発信された情報にアクセスできたり、通訳・翻訳のような特別な仕事がもらえたりする。この恩恵にあずかれるのは、一定以上の時間をかけてその言語を身につけた者に限定される。
したがって、「外国語が話せる」というのは、価値のある特殊技能であると言えよう。だから、~語能力検定のような資格試験があったりするわけだ。

しかし、上に紹介したような翻訳技術がこれから先、どんどん社会に浸透していったら、どうなるだろう?

英語が少しもわからない人でも、
・英語の文化圏でまともな生活ができる
・英語の情報が得られ、正確に理解できる
・英語の通訳、翻訳を人に依頼しなくて済む(= 英語の分かる人は、通訳や翻訳を依頼されなくなる)

こんな時代が、もうすぐ来るのかもしれない。

確かに、ソフトウェアによる翻訳技術がこのまま進歩していったら、「言葉の壁」と言われているものはかなりの程度、取り払われる可能性がある。つまり、自分や相手の母語が何であるかに関係なく、意思疎通ができるようになる、ということだ。
そうなると、わざわざ時間をかけて自分で外国語を勉強するのは、無意味に思えてくる。

果たして本当にそうだろうか?機械翻訳の進歩は、「語学力の価値がゼロになる」ことを意味するだろうか?

「ソーシャルな価値」から「パーソナルな価値」へ

私の考えでは、答えはNOだ。
厳密に言えば、「語学力」という技能は、また別の価値を持つようになってくるだろう。

確かに、翻訳技術の発達によって、語学力が持つ価値の一部はおそらく失われる。
それは「ソーシャルな価値」、つまり社会にとっての価値である。
ざっくり言うと、「誰かが〇〇語の技能を持っていること」を社会は必要としなくなる、ということだ。
ビジネスやアカデミアのような、「情報の中身が伝達できればいい」という世界において、翻訳は余計な作業だ。
ソフトウェアが、そういった事を人間よりも正確に、素早く、低コストでやってくれるとしたら、人間に依頼する理由はあまりなさそうに思える。

しかし、ソーシャルな価値が失われることによって、別の価値が浮かび上がってくる。
それが「パーソナルな価値」、すなわち私たち一人一人にとっての価値である。
たとえ社会の要請がなくとも、個人にとって語学力が価値を持つということは、十分にありえる。

・好きな歌や文学作品を、原語で鑑賞し、理解したい
・友人や恋人の母語で、一緒に会話をしてみたい

そんな時、機械翻訳は解決手段にならない。

言葉の意味は、機械翻訳を使えばたちどころに判明するだろう。しかし、
「目や耳に入ってきたそばから理解できる快感」というものがある。
そのままの声で、気持ちを伝えたい、理解したい時がある。

そのような個人的欲求を満たしてくれる語学力は、たとえ社会の役に立たずとも、その人にとって確かな価値を持つ。

おわりに

念のために書いておくが、私は機械翻訳技術の発達を否定しているわけでは全くない。むしろ歓迎している。
何かを達成するための技術が進歩すると、それ以前のプリミティブな手段には、別の価値が与えられる。
語学の中心的な価値がパーソナルなものへ移行するのは、豊かさの証左とも言えよう。

どこかへ移動するのに、誰もが車や電車や飛行機を使うようになった。
そんな時代になっても、「何となく気持ちがいいから」という、極めて「パーソナルな」理由で、自らウォーキングやランニングに励む人がいる。
同じように、機械翻訳がもっと当たり前のように使われる世の中が来ても、パーソナルな営みとしての語学は価値を持ち続けるだろう。